2008年6月20日金曜日

YAMAHA

ヤマハ株式会社(YAMAHA CORPORATION)は、日本の楽器・半導体・スポーツ用品・自動車部品メーカー。本業の楽器以外に様々な分野で、事業展開しているグローバルメーカーである。

ロゴタイプは大文字英字でYAMAHA。ヤマハとヤマハ発動機では、"M"の文字中央の谷の部分に微妙な差異があり、谷の部分が地面についていないものがヤマハ、地面についているものがヤマハ発動機である。また、トレードマークは音叉を3本組み合わせた形を図案化したもの。これもまたヤマハとヤマハ発動機で異なり、音叉の持ち手が周りの円より内側に入っているものがヤマハ、持ち手が円に被り、マーク全体に立体感が付けられたものがヤマハ発動機である。

会社概要
明治時代の創業以来の事業であるピアノ製造をはじめとする伝統的な楽器事業は国内トップブランド[1]であり、機械的な面での質の良さから、海外においても非常に知名度のあるブランドとなっている。

1960年代からエレクトーン、電子ピアノ等の電子楽器の開発製造をおこなっており、電子的な音源の開発ではMIDI規格等において規格制定企業となるなど高い技術力を誇っている。これらの電子機器の開発から得られた技術力を活かし、半導体等の電子部品、ルータ等のネットワーク機器、オーディオ機器等の製造を行うAV・IT事業でも知られる。

これらの楽器製造から派生した事業として、ピアノの木工加工、塗装等のノウハウを活かし、高級システムキッチン等の住宅機器製造をおこなうリビング事業や高級車用の木工パネル製造等の自動車部品事業、楽器の普及のための事業から発展したピアノ教室やレコード会社等の音楽関連事業、音楽をはじめとして生活に彩りを与えるものとして手がけられたリゾート施設等のレクリエーション事業、ゴルフクラブを製造するスポーツ用品事業、楽曲配信などを本社及び関連会社で行っている。

二輪車製造大手のヤマハ発動機は1955年にヤマハの二輪製造部門が独立して設立されたものである。2006年現在においては資本関係・取引関係は重要なものではないがブランド名を共通とする関連会社である。

2006年3月期の連結売上構成は楽器事業58.8%、AV・IT事業14.2%、電子機器・電子金属事業10.5%、リビング事業8.4%、レクリエーション・リゾート事業3.3%、その他4.6%となっている。

沿革

[編集] 第二次世界大戦前
ヤマハの源流は1888年に山葉寅楠が浜松で日本最初の本格的オルガンの製造に成功したことに始まる。

寅楠は1889年に合資会社山葉風琴製造所を設立。1891年には出資引き揚げにより一旦は会社を解散するが、河合喜三郎と共同で山葉楽器製造所を設立した。1897年10月に日本楽器製造株式会社に改組した。当時の資本金は10万円であった。現在も引き継がれている音叉をデザインした商標はこの直後1898年に定められている。

1916年の寅楠の死後は2代目社長に天野千代丸が就任し、ピアノ製造は一族の山葉直吉らがあたった。1921年には木製プロペラの製造を開始し、これは後のヤマハ発動機に至る事業となる。同年8月には西川楽器(西川オルガン)を合併。西川オルガンは1890年の第3回内国勧業博覧会でもヤマハに次ぐ2等賞を得るなど評価が高く、合併後も「Nishikawa」のブランドで製造が続けられていた。この1921年には家具の製作が開始されている。

1926年4月には大規模な労働争議が発生。社外の労働運動家が多く加わり105日間のストライキが実行され、会社役員宅が爆破されるなどの暴力的な騒動にまで至ってしまう。このことが原因となり翌1927年には天野が辞任。後任に住友電線の取締役であった川上嘉市が3代目社長に就任した。嘉市は住友財閥の支援も受け、経営の合理化と技術革新でヤマハの再建を果たしたと評されるが、その後に続く「非オーナーでありながら経営者の世襲」という問題を生じた川上親子3代の経営の始まりでもあった。

経営の好転後、1935年にはヤマハ初の電気楽器「マグナオルガン」を製作、1937年に管楽器製造をしていた日本管楽器株式会社(ニッカン)の経営を援助し、嘉市が監査役となるなど実質的にグループ化、総合楽器製造企業へ成長しつつあった。

しかし、時勢は戦時の雰囲気を強めつつあり、1938年には陸軍管理下の軍需工場となり、金属プロペラの生産を行い大工場になる。1944年11月には楽器類の生産は完全休止、12月にはイギリスの戦艦キングジョージV世の艦砲射撃で浜松の工場が全壊するなどの被害を受け終戦を迎えた。


楽器メーカーから多角化経営へ
終戦後わずか2か月後の1945年10月にはハーモニカ、シロフォンの製造を再開、1947年4月にはピアノ製造の再開を果たした。1949年5月に東京証券取引所第1部に上場。

1950年に嘉市の息子である川上源一が38歳で第4代社長に就任。源一は伝統の楽器事業を充実させるとともに、技術の応用による多角化、また戦後の経済復興とともに音楽をはじめとする生活を彩りを加えるという分野での事業の多角化を図った。源一のかけ声は「日本にエピキュロスを」であったという。

日本の狭い住宅環境でも鍵盤楽器に親しめるようにとの考えから1959年12月にエレクトーンD-1を開発、同時にヤマハオルガン教室(現在のヤマハ音楽教室)を開設。またピアノ、エレクトーンの販売のために割賦会社を設立。1966年に財団法人ヤマハ音楽振興会を発足、1967年には第1回全日本LMC(ライトミュージックコンテスト)、1969年11月には第1回作曲コンクール(後のポプコン)を開催するなど、手軽に購入できる楽器と音楽教室、コンクール開催で『趣味としての音楽演奏』の普及を図った。1965年に管楽器、打楽器の製造を開始。1970年には日本管楽器を吸収合併するなど、1960年代には総合楽器メーカーとしてグランドピアノから管楽器、打楽器、弦楽器まで幅広く製造する総合楽器メーカーとしての基礎を固めた。

一方、楽器以外の分野では、1954年にヤマハ・YA-1(愛称は赤トンボ)の製造を開始、1955年7月には二輪車部門を独立しヤマハ発動機株式会社とした。初のスポーツ用品となるアーチェリーは1959年に開発している。素材であるFRP(繊維強化プラスチック)の開発は、1961年のスキー板、住宅用浴槽の発売へとつながった。1975年には高級家具の製造を開始している。

リゾート事業では1964年に鳥羽国際ホテルをオープン、以降1967年に三重県志摩市に合歓の郷、1974年に静岡県掛川市にヤマハリゾートつま恋、1978年に掛川市に高級和風リゾートの葛城北の丸、1981年に沖縄県竹富町にはいむるぶしをオープンした。

源一の余暇産業への多角化を図るという経営方針は、1960年代から1970年代の20年間の日本の余暇産業の成長と合致し、ヤマハの経営は右肩上がりの成長を続けていた。地元浜松でのヤマハの評判は大きなものであり、同じく地元企業であるスズキの鈴木修(後のスズキ社長)が昭和30年代の新入社員のころ、飲み屋で「つけといてくれ。スズキの社員だ」と言うと「日本楽器さんならいいけど」と断られたという。

源一はこの成功により「ヤマハ中興の祖」と言われたが、同時にその強い性格とともにワンマン経営の傾向も指摘されるようになっていった。1977年1月には『足元の明るいうちにグッドバイ』の名台詞を残し第5代社長を河島博に譲るが、意見の対立から僅か3年後の1980年6月には第6代社長に復帰している。


ハイテク企業への成長
1960年代のエレクトーンの開発で得たトランジスタに関するノウハウから電子技術が発展し、1971年に初のIC生産を開始、1970年代から1980年代前半にかけて、音楽ミキサーやエレクトーン、電子ピアノ等の電子楽器の開発を進めた。1981年にローランドなどの他5社と共同でMIDI規格をまとめる。この規格を取り入れた1983年5月に発売されたデジタルシンセサイザーDX7はアイドル自身が演奏する「バンドブーム」と重なりヒット商品となった。

1983年10月にはMSX規格のパソコンを発売。1985年のMSX2規格、1988年のMSX2+規格、1990年のMSXturboR規格ではヤマハの開発したVDPやFM音源が採用されるなど、パーソナルコンピューターの分野で「音源チップのヤマハ」という地位を獲得した。

電子部品の分野においても1984年にはハードディスクに用いる薄膜磁気ヘッドの開発を開始。ハードディスクの普及にともない急成長していった。


混迷・低迷から再構築へ
強い権力を誇った源一は1983年に長男の川上浩を第7代社長に指名し自らは会長となったが、取締役会の招集権限は会長にあるなど院政の傾向があったと言われる。源一は、後に社長となる上島清介を社長としようとしたが上島は固辞。源一は「浩が武田勝頼になりはしないか。身内として非常に心配だ」と浩の社長就任の際に語ったという。

浩は社長就任後に組織を21の事業部制に変更。創業90周年を迎えた1987年には社名を日本楽器製造株式会社(ニチガク)から、山葉寅楠のオルガン修理から100周年を記念し、商標で知名度のあったヤマハ株式会社へ変更した。

しかし、伝統的な楽器事業においてはピアノは1980年、エレクトーンは1981年に出荷台数がピークを迎えて以降、減少傾向が続いていた。新たな事業の柱を育てようとAV機器事業で従来の高級機から普及機への進出を図るなどしたが結果は残せなかった。また半導体・電子部品事業も競争は激しく、楽器事業の余剰人員を吸収することはできなかった。時代としては1980年代後半のバブル期であり収益機会は多分にあるにもかかわらず社内的要因によって経営が立ち後れているという認識が社内に蔓延した。1991年に実施された希望退職制度『転進ライフプラン援助制度』には従業員の6%にあたる724名が応募し、会社側が予想する以上の人材流出を招いた。しかし、これに対し、浩は『停滞感のある職場から、どこか活気ある職場に移りたいという従業員にはそういう機会を与えた』とコメントし、1991年10月には中堅社員の96%が経営に危機感をもち、半数がモラル低下を感じるようになっていたという。

ついに1992年2月には労働組合が浩に対し「出処進退申入書」を提出する事態となり、浩は社長退任を表明。上島清介が第8代社長となった。この川上家の経営からの退場劇は、財団法人ヤマハ音楽振興会などを巻き込み1年後まで混乱が続くこととなる。

上島は社内組織を再構築するとともに、半導体・電子部品事業によって経営を立て直しを図るが、バブル崩壊による景気の後退からリゾート事業の不振、また音源チップが主力であった半導体も需要が急変するなど難しい舵取りとなった。

半導体はその後ゲーム機や通信カラオケ機器に搭載されるなどし、電子部品は1995年にはハードディスク用薄膜ヘッドの世界シェアは25%となるなど成果を得ていたが、不安定な需要変動から安定した利益を得ることは難しかった。1997年6月には第9代社長に半導体・電子部品事業出身の石村和清が就任し事業強化を図ったが、1998年に増設した半導体工場をわずか1年後の1999年には半導体大手のロームに売却。同年3月期は上場以来初の営業赤字に転落した。この不振からの脱出のため、2000年には稼ぎ頭だった磁気ヘッド製造事業も売却することとなった。

一方、リゾート事業は、1991年にオープンしたキロロリゾートが不振となり、1995年には149億円の負債を整理した。2002年10月1日にはヤマハリゾートを吸収合併し、負債をヤマハ本体が引き受けた。

この他、資本関係では2000年3月にヤマハ発動機の株式5%をトヨタ自動車に売却、さらにヤマハ発動機の間接的買収防衛策として、2007年5月にヤマハ発動機株式の7.8%を三井物産などに売却するとともに、ヤマハ発動機も2008年3月下旬までに市場を通じてヤマハ株式5%を取得し、両者で持ち合い関係を確立させることになっている。

これらの事業の再構築が効を奏し、2002年以降は業績が回復。特に2004年以降では携帯電話の着メロ用の半導体の需要が堅調である。近年では日本国内では携帯電話で再生される音楽は回線の高速化により着うたにシフトしつつあるが、中国等の成長市場においてはヤマハ製の音源チップ内蔵の携帯電話の需要が見込まれている。

2000年4月に就任した第10代社長の伊藤修二は、 今後の経営方針のキーワードを『音楽のヤマハ』・『大人市場』・『中国』としている。楽器レンタル、楽譜のオンライン販売、大人向け音楽教室の展開などにより大人の音楽市場をさらに開拓するとしている。また中国をはじめとするアジアの成長市場においてもピアノ市場は年間販売台数が15万台から20万台と見込まれており、2004年10月から杭州での現地生産を開始している。2005年10月には上海で音楽教室を開始している。


伝統的な楽器全般
ピアノ - グランドピアノ、アップライトピアノ、サイレントピアノ(電子ピアノ)
1960年代以前は国内での同社製のピアノの認知度・シェアはまずまずであったが、海外からは全くといっていいほど認知されていなかった。それは当時の技術が未熟であることや、一流の演奏家が求めるピアノの条件を知らず、海外のトップブランドのピアノとは大きな品質の差があったためである。そのため1960年代中期より、同社の技術者である松山乾次、村上輝久等を、スヴャトスラフ・リヒテルの専属ピアノ調律師として派遣し、コンサート前に調律を行う中でピアノのノウハウや、一流の演奏家がピアノに求める事を学んでいき、それに伴い彼からの信頼も勝ち取っていった。数年後、転機が訪れる。そのピアニストにヤマハのピアノを紹介する機会が訪れ、それがきっかけでヤマハのピアノをコンサートで使ってもらう事になった。次第に世界の音楽家たちからヤマハのピアノが認知・評価されていった。また電子ピアノの分野ではデザイン力も高く評価されており、P-140シリーズは2005年のグッドデザイン賞を受賞している。


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Mason and Hamlin

メイソン・アンド・アムラン(Mason and Hamlin)は、アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ハヴァーヒルに本拠を置くピアノメーカーである。

1854年、ヘンリー・メイソンとエモンズ・アムランによりボストンに設立。オルガン製作が元であったが、1883年にピアノ製造を開始。


1924年のセルゲイ・ラフマニノフの演奏による彼のピアノ協奏曲第2番の録音に使われた。


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Fazioli

ファツィオリ(Fazioli)は、イタリアのピアノメーカー、及びそのピアノをいう。ファツィオーリとも。

沿革
もともと家具メーカーであったが、ピアニストでもあった社長のパオロ・ファツィオリが世界最高のピアノづくりを目指して1978年に創設した。工場はイタリア北部のサチーレにある。音響学や木工技術などの専門家やアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリのピアノ調律師であったタローネの弟子らを招聘してゼロからピアノを考案したという。サプリメンタルブリッジを一体型でなく各音のキーに正しく合わせる独立アリコート方式を採用、豊麗な音の伸びと美しい高次倍音を可能にした。また、響板に、一般的に使用されるアラスカ製のものでなく、フィメンエ峡谷のレッドスプルースを使用している。1980年に最初のモデルが完成、創業20年あまりにして、ピアノの名器として、スタインウェイやベーゼンドルファーなどと並ぶ名声を確立している。職人による手作りにこだわり、生産はグランドピアノのみを年間70台程度という。

特徴
家具メーカーであったことが影響したのか、両端音域の音質が中音域とそれほど変わらない「全部の音域が均質な」珍しい性能のピアノである。これは19世紀にあった、全ての音域が違った音質を揃えた従来のピアノ製法とは、正反対の方角を向いている。そのため、低音域のうねり、中音域の艶、高音域の硬質感といった各音域の特徴を意識して作曲された曲を演奏すると、ファツィオリだけが特異な表情を見せる。一方で、後述するとおり、このファツィオリだけが持つ均質感に魅了されるピアニストも多い。

主な製品
世界最大のモデルF308は、奥行きの長さが308㎝(通常は275㎝前後)、独自の第4ペダル(物理的に鍵盤を下げることで沈む深さを浅くし、操作を軽快にする)を備える。高音から低音まで均質でクリア、ダイナミクスの大きさなど、現代ピアノに求められる性能を十分に発揮しながら、柔らかみのある木質感をたたえた音質が特徴。

需要状況
日本では、1988年にラザール・ベルマンが使用したのが初めてといわれる。アルド・チッコリーニがファツィオリを好んで弾いており、ショパンの夜想曲集などの録音がある。チッコリーニは、2003年10月のファツィオリ・フェスティバルでも来日してファツィオリを演奏し、話題を呼んだ。2004年には、アンジェラ・ヒューイットがファツィオリを弾いて録音したショパン夜想曲・即興曲集が発売された。マウリツィオ・ポリーニもファツィオリを購入したといわれる。現在のところ、日本では栗東芸術文化会館「さきら」(滋賀県栗東市; 日本で初めてファツィオリを購入したホール)、幕張ベイタウン・コア(千葉県千葉市)、北上市文化交流センター(岩手県北上市; 2005年10月にアルド・チッコリーニが再来日しファツィオリを演奏)が所有する以外は数名の個人購入者を数えるのみで「幻のピアノ」と呼ばれることも多い。


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Baldwin

ボールドウィン - アメリカの楽器製造会社

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Blüthner

ブリュートナー (Blüthner、Julius Blüthner Pianofortefabrik GmbH)は、ドイツを代表するピアノメーカーの一つ。このところ日本でも徐々に注目されつつあるが、ヨーロッパにおいては一流ピアノとしてベヒシュタインと同様の高い評価を得ている。

特徴
「ブリュートナーのピアノは本当に歌う事が出来、そしてそれはピアノにとって最高の褒め言葉である」と書き残したのは、20世紀最高の指揮者ともいわれるフルトヴェングラーである。また一般的に、ブリュートナーの音色は温かく情緒的なロマンチックサウンドといわれる。立ち上がりが丸く、明瞭さの伴った歌声のように伸びていく音は、一つ一つの音のつながりを良くしメロディーラインをきれいにしっかりとなぞって行く事ができる。

また、高音部にアリコートと呼ばれる打弦されない4本目の弦が張られている。この方式の特徴は、音色を華やかにする他のメーカーが採用している方式と違い、響きを豊かにするものである。

更に近年ハーモニックペダルの特許をとっている。 これは通常のダンパーペダル使用時にスタッカートが利き、同時に打弦されずに開放状態にある弦の共振を保つことが出来るようにしたものである。

歴史
1853年、ユリウス・ブリュートナーによってドイツのライプツィヒで創業された。そして、1872年にアリコートの特許を取っている。1938年に飛行船に乗せるために、アルミ製のきわめて軽いグランドピアノが作られ話題になる。第二次世界大戦中の1943年には、他の多くのドイツのメーカーがそうである様に、工場が空襲で焼かれ屋根は焼け落ち楽器はもちろん材料となる木材もすべて焼き尽くされたといわれる。その後市場にピアノを送り出すまでに回復するには1948年まで待たなければならなかった。また東ドイツ時代には一時国営化されたが、1990年の東西ドイツ統一を期に経営権はブリュートナー家に返還される。その後順調に業績を伸ばし、2005年にはヨーロッパにおけるコンサートグランドピアノの販売台数が、2番目に多いという記録を作るまでになっている。1位は言うまでもなくスタインウェイである。

イギリスのヴィクトリア女王を始め、ドイツ国内はもちろんオーストリア、デンマーク、ギリシャなどの多くの皇室にも納品される。ブラームス、リスト、チャイコフスキー、ドビュッシー、ショスタコーヴィッチなどの多くの有名な作曲家、ブゾーニ、アラウ、ルービンシュタイン、プレトニョフなどのピアニスト、そのほかヨハン・シュトラウス、フルトヴェングラー、メニュヒン、マルケヴィッチなどの音楽家からも高く評価されている。

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Essex

エセックスピアノ(Essex Piano)は、スタインウェイ(Steinway & Sons)の第3ブランド。スタインウェイやボストンよりも安い価格帯を求める顧客向けのピアノである。

設計はスタインウェイによるが、グランドピアノは韓国(Young Chang社)で、EGP-155シリーズは中国(Pearl River社)で製造されている。

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Boston

米国最大の総合楽器メーカーSteinway Musical Instruments Inc.(SMI)の、ピアノ部門Steinway Piano Company, Inc.(SPC)が、Steinway & Sonsの第2ブランドとして1991年にBostonを設計した。

80%以上の製造工程が手造りで最高級木材を使用しているスタインウェイピアノは、生産台数が少ない(2006年現在年産2500台程度)こともあって高価なため、ヤマハやカワイの製品ような年産10万台規模の量産ピアノに近い価格帯の普及型ピアノとしてOEM生産されている。

当初はアメリカと日本の近代的な生産ラインを持っているピアノ工場で製造されていたが、現在は河合楽器製作所の日本国内の工場でのみ製造されている。河合楽器の直営店・ショールームにもこのピアノが展示・販売されているのはこのためである。しかし設計はあくまでもSteinway & Sonsであり、独自の生産ラインで製造されていることや木製のアクションを使用(現在のカワイピアノはすべて炭素繊維入りABS樹脂を使用)しているなど、アイデンティティを保っている。

日本での販売は、日本国内で生産されているものの「逆輸入」のかたちをとっていた。2004年4月以降はスタインウェイ・ジャパン株式会社によって出荷が管理され、正規の特約店を通して販売されている。

スタインウェイの特許や設計思想を継承することで、同じ価格帯のピアノにはない特質を生み出したことで、ヨーロッパ、アメリカを中心に世界中でミドルクラスのピアノとして評価されている。

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Steinway & Sons

スタインウェイ(または、スタンウェー、スタンウェイ、Steinway & Sons)は、ピアノ製造会社。ベヒシュタイン、ベーゼンドルファーと並んで、御三家の一つに数えられる。1853年、アメリカ合衆国・ニューヨークで設立され、今日では、ニューヨークと、ドイツ・ハンブルクに生産拠点を置く。スタインウェイのピアノは、世界で最も有名なピアノの代表格であり、俗に「神々の楽器」 (The Instrument of the Immortals) として知られているが、これは多くの伝説的なピアニストや作曲家達の信奉の結果でもある。



沿革
1836年に、ドイツ・ニーダーザクセン州のゼーセン (Seesen) で家具製作を営んでいたヘンリー・スタインウェイ(ハインリヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーク、Heinrich Engelhard Steinweg/Henry E. Steinway)が、スタインウェイの第一号となるピアノを製作した。ヘンリー・スタインウェイはその後、ドイツからアメリカ合衆国へ渡り、1853年にスタインウェイ・アンド・サンズをニューヨークに設立する。ヘンリー・スタインウェイの死後、1880年に、ハンブルクに生産拠点が開かれた。

ベーゼンドルファーなどのヨーロッパの名門メーカーは、ピアノをチェンバロの進化した延長として、音響的に残響豊かな宮廷で使用する前提でピアノ造りを行なっていた。それに対して、スタインウェイは、産業革命により豊かになったアメリカ市民が利用していた数千人を収用できる音響的に貧弱な多目的ホールにおいての使用を念頭においた独自のピアノ造りを追い求めた。そのために、今では常識となっている音響工学を設計に取り入れる手法を初めて取り入れた。その結果、スタインウェイはピアノとはいえ、基本的な構造そのものが従来のピアノとは根本的に異なるものとして造られるようになったのである。

ピアノの設計思想にはいくつかの流派がある。響板のみを響かせようとしたベヒシュタイン。胴の部分にも響板と同じ木材(単板)を用い、なおかつ薄く響きやすいようにしたベーゼンドルファー。スタインウェイはそれらに対して、厚く強固な胴でしっかりと響板からの圧を支える構造を持つ。また胴からの反射音も多彩な響きに貢献していると言われている。それ以外にも鋳鉄製単一フレームや交差弦方法など、スタインウェイによって広められた革新の数々は、世界的に広く他のピアノ製造者への手本となった。こうしたことから、現代のピアノはスタインウェイによって完成されたと言える。

しかしながら、20世紀後半以降、スタインウェイの経営は順風満帆とは行かず、1972年のCBSによる買収、その後の複数の個人投資家への売却を経て、1995年にセルマーの傘下に入った。今日では、セルマー及びその傘下に収まった旧UMIグループらと共に「スタインウェイ・ミュージカル・インスツルメンツ」(旧・セルマーインダストリーズ)を核とする楽器製造企業複合体を形成するに至っている。

この企業複合体は、1990年代後半にかけてアメリカ経済のバブルの恩恵を受けて、売上高を急激に増やし、楽器業としては最も高い売上を確保するようになり、財務体質が改善された。その結果、多くのピアノ製造メーカーが経営難に直面し、良い素材の確保が困難になる中で、スタインウェイはピアノ造りに欠かせない良質な素材を確保する点で決定的な優位性を保持する事となった。スタインウェイの品質の優位性については、このように財務面でのヨーロッパに対する優越性が無視できない要素となっている。

またこれ以外に、戦後の世界的な高級ピアノ市場の占有率をスタインウェイが独占できたのは、ヨーロッパ、特に敗戦国であるドイツの名門メーカーが第二次大戦の戦災により壊滅的なダメージを受け、主要な工房や多くの技術者を失った現実によるものでもある。

音色
スタインウェイ・ピアノの特徴はその透明感溢れる音色にある。そのため、クラシック、ジャズだけでなく、ジャンルを問わず対応することができる。とりわけ、マイクなどを通した電気信号変換の結果について違和感が少ないために、レコーディングや放送局では、ほぼスタインウェイのみが使用される。スタインウェイピアノは、その生産工場がアメリカ・ニューヨークとドイツ・ハンブルクの2箇所が存在し、それぞれで音色が若干異なる。

ニューヨーク・スタインウェイは、音色の好みを所有者自ら自在に調整できるように、出荷段階では柔らかめの音色になっている。しかし、ピアノ調律師との連携によりきらめくような独特の音色を生み出す事も可能である。ハンブルク・スタインウェイは、ニューヨークのものより初めから中庸にまとめられて出荷されており、弾き込む事により円熟した音色へと育つ。

スタインウェイはドイツ・ハンブルク製を輸出に適したモデルとしており、日本を始め世界各国で利用されるスタインウェイは殆どがドイツ製である。ちなみにアメリカ・ニューヨーク製については、基本的にアメリカのみへの出荷となっている。日本でニューヨーク・スタインウェイを購入するには、中古品を探すか特注扱いで取り寄せるしかない。

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2008年6月11日水曜日

Pleyel

プレイエル・ピアノ

ピアノ製作会社「プレイエル商会(Pleyel et Cie )」は、イグナツ・プレイエルとその息子カミーユ(1788年 - 1855年、ピアノの名手で1815年に父の仕事の共同経営者になった)によってに設立された。この会社はショパンに使用されたピアノを生産し、また、ショパンがパリで最初に演奏会を(そして最後の演奏会も)行ったコンサートホール「サル・プレイエル(Salle Pleyel)」も経営した。19世紀末ころ、プレイエル社は最初の半音階ハープを製作した。20世紀初頭には、ワンダ・ランドフスカの要請で、ハープシコードの復活に手助けをした。

プレイエル社史

イグナツ・プレイエルによって1807年にPLEYELを冠した最初のピアノが製造される。 1813年にイグナツは、正式にカミーユにその経営権を譲り、1829年にイグナツの健康状態の悪化を機にプレイエル親子は、財産の整理を始め、長年の友人であるカルクブレンナーが、プレイエルピアノの製造、販売、貸出を行うPleyel & Co.を設立する。

1855年にカミーユよりオギュスト・ヴォルフに経営権が引継がれ、ヴォルフは、工場をパリからサンドニに移動させる。55000㎡の広大な工場では、1866年の最盛期には年間3000台のピアノを生産した。1887年のヴォルフの死を受け、義理の息子であるギュスターブ・リヨンが経営を引継ぐ。優れた音楽家でもあり、鉱山技師でもあったリヨンは、製造の近代化に成功する。1866年には、プレイエルの経営は、パリのロシュシュアールのショールームの他に、パリ市内に2軒、ブリュッセル、ロンドン、シドニーにそれぞれ1軒ずつ支店を持つまでに成長した。

1927年にパリにサル・プレイエルが建設される。

1930年、リヨンが経営より退く。時を同じくして、1929年のアメリカの株の大暴落を受けたプレイエルのピアノ部門が1933年財産管理下に陥る。翌年、プレイエル破綻。サル・プレイエルは、クレディリヨネ銀行に買収され、1998年までその管理下におかれる。

1961年、経済的苦境の中、前年に合併したばかりのガボー・エラールと合併し、ガボー・エラール・プレイエルとなる。この時点で、多くのピアニストの証言からプレイエルの音は消えたといわれている。1971年に、ドイツのシンメル(Schimmel piano company)により買収され、工場をドイツのブラウンシュヴァイクへと移転する。このシンメルによる経営はその後25年に亘る。この買収劇によって、プレイエルブランドのピアノはドイツ資本となったものの、技術者たちが出資者たちの援助のもと、北フランスに工場を開き、ラモー(Rameau)の名でフランスピアノを作り続ける。

サル・プレイエルの所有者であるクレディリヨネ銀行が、1995年に経済的なスキャンダルに見舞われ、その財産が国の管理下におかれ、競売に掛けられる。翌年、フランス人ビジネスマンのユーベル・マルティ二がサル・プレイエルを購入し、南仏アレスに移転していたプレイエルの工場の再生にも着手し、名称もフランス・ピアノ製造会社(Manufacture Francaise De Pianos)に変更する。翌1998年、サル・プレイエルの実質的な売却が行われ、70年間の分裂を経て、再びプレイエルが一つになる。サル・プレイエルは2006年9月に再開され、オーケストラの公演など多くのコンサートを開いている。

2002年マルティニの要請を受け、アルノー・マリオンがサル・プレイエルとフランス・ピアノ製造会社の経営に関る。2006年現在、フランス・ピアノ製造会社は、アラン・ラフォンにより運営されている。


プレイエルピアノでの録音

戦前のSPではこのメーカーで録音された演奏も多かった。中でもアルフレッド・コルトーの1930年代の録音は、全てプレイエルで行われている。


名の呼び方
「Pleyel」はドイツ語では、おおよそ「プライル(plile)」のように発音される。フランス語では、(やはりおおまかに)「プレイ-エル(play-ELL)」である。英語の話者は、一般にフランス語の発音に従っている。日本語でも、フランス語のように「プレイエル」と表記することが多い。

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